讃岐屋緑兵衛とは

讃岐屋緑兵衛はグリーンプランニング株式会社がヤフオクの出品の際に使用している「屋号」です。

商品サイズ毎に「盆栽素材市場」や「野風盆栽流通」「高松盆栽流通」などいくつかの屋号を使用していますが、「讃岐屋緑兵衛」が主力商品を販売しており、YouTube や Facebook 、Twitter にもこの屋号を使用してういます。

 

讃岐屋緑兵衛へのリンク

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讃岐屋緑兵衛の商品は・・・

盆栽素材を主体に販売しています。完成品や経年の古い品など高級品は殆ど扱いません。

廉価品を得意としています。そのため仕入れは年間50回を超える競りに参加して、品揃えよりも相場優先で競り落としています。シーズンにより樹種が偏っているのはそういう事情です。月8回開催される豊明市場の競りにも毎月4回オンラインで参加しています。

また、当地は松盆栽の産地で生産者からの委託での販売も受託しています。

 

讃岐屋緑兵衛の販売方針

主にヤフオクで販売しています。楽天市場やamazonなどのショッピングサイトへも僅かながら出品していますが、盆栽素材の販売はヤフオクが適していると判断しています。

ショッピングサイトの場合、どうしても代表(見本)画像となりますので、贈答品のように育てる人は画像を見ないのでイメージ優先画像で良いのですが、育てる人、特に、すでに盆栽を趣味としている経験者の方は細部に「こだわり」があります。

そのこだわりに少しでもお応えできるよう一品ずつ現物画像をそれもできれば多枚数の画像をご提供しています当方では、この多枚数に加えて追加画像ソフトや動画を利用することもあり、可能な限り細部をお伝えできるように努めています。さらに、これは重要ですが「悪い箇所」を特にお伝えするようにしています。

そしてヤフオクでは当たり前の「ノーキャンセル」「ノークレーム」「ノーリターン」は一切謳っていません。真摯に対応することに努めています。

 

讃岐屋緑兵衛として・・・産地貢献

松盆栽の国内最大産地で商売をさせていただいていると様々な関係者と接する機会があります。その中で長老達から拝聴する昔話は松盆栽産地の歴史として記録しておくべきと考えました。

 

[島からの素材調達]

島木はその環境により、鬼無・国分寺の周辺の山地の松とは異なる独特の表情がありました。そのため1960年頃は島木を求め素材の仕入れに出向いていました。

島へは、香西港の漁師さんに渡してもらい、渡し料はお米で代用されたそうです。松を採取させていただく島の地主へのお礼もお米だったそうです。松盆栽の生産者は皆さん農家ですから、お米はたくさん作られています。一方、漁師さんや島の方にとってはお米は貴重な食糧源であったために双方のメリットが一致していました。

島木採取は数日間キャンプで続けられました。島中を巡り、採取してはベースキャンプである浜辺の砂浜に活けこんで何度も往復したそうです。

数日後に約束していた漁師さんに迎えに来てもらい、香西港から鬼無・国分寺へは当時のことにて馬車で運んだそうです。

 

[伊予の五葉松の調達]

赤石五葉松が有名な伊予五葉松。讃岐の国からもその素材を求めて入手先を確保していました。

その昔、赤石山系に別子銅山が栄えていたことは有名です。その別子銅山に勤めていた方やその家族が、周辺の山で採取した山取の苗木を庭に活けてもらい貯まるとトラックで引き取るといった調達をしていました。1960年頃のことです。ちなみに別子銅山は1973年に閉山されました。

現在では、赤石五葉松の生産者から鉢に上げられ、ある程度年数を経たものを仕入れるのが普通になりましたが、冷涼な赤石の地域と温暖な讃岐の気候条件には大差があり、特に夏場のダメージを防御しきれず枯らしてしまうことが少なくありませんでした。それで現在では年々、扱う生産者は減りました。地球温暖化も大きく影響しているのかもしれません。

 

[松ぼっくりの調達]

松盆栽の生産者の多くは種から苗を育て盆栽にします。もちろん苗は、実生のまま使用する場合もあるし、接ぎ木の台木苗にも使用します。途中で色々、姿かたちは変われども種から始まります。したがいまして、種の調達は重要でした。

ある、生産者は自身の畑から採取しますし、性の良い松が多い仲間の畑から分けてもらう場合もあります。短い葉や皮乗りの良い親木からの松ぼっくりの入手が重要な条件であったそうです。昔は、山や海岸、島などへも採取に行く人も少なくなかったそうです。

この種=松ぼっくりの入手方法は様々ですが、収穫の季節は秋祭りの頃と概ね決まっているようです。

全盛期の頃には実生が間に合わずというより、とにかく生産を増やしたいので、植林用の苗木を調達していた時期もあったそうです。昔は国有林を始め林業も盛んでしたので営林用の苗木を生産する業者が国分寺町内にあり、植林に向いていない規格外の曲がった松苗は、むしろ盆栽には適しており重宝されたそうです。

 

[鬼無、国分寺に隠れた第3の松盆栽産地]

香川県が国内最大の松盆栽の産地と紹介される際、かならず鬼無、国分寺と2つの町名しか出てきませんが、忘れてはならない第3の町「綾南町」があるのです。地元の盆栽関係者は全員知っていますが、なぜか他県の人は全く知らないのです。

国分寺町の交換会は3年前になくなりましたが、綾南町の交換会は100年以上現在も続いているのです。数十年前には「尾松力松」という錦松の名人も輩出しています。

 

[タブーに触れる?競合してきた鬼無と国分寺]

隣り合わせの産地、長年競合してきたことは事実、歴史的には鬼無町が古いのも事実、錦松という爆弾ヒットで国分寺町が隆盛したのも事実、そして平成になり双方とも市場規模に連動して縮小してしまったのも事実です。

昭和後期より住環境変化により盆栽を飾る床の間はなくなり、育てる庭が無くなり、愛好家が少なくなった市場を背景に、産地では後継者もいなくなり数百軒あった生産農家は数十軒となり、競い合うほどの市場規模はなくなりました。

香川県や高松市が衰退産業として産地振興のための助成をし「高松盆栽」構想を打ち立てて、鬼無町と国分寺町の生産者を束ねるべく「高松盆栽の郷」を立ち上げました。

もともと高松盆栽の郷は鬼無町の盆栽園の後継者が企画をしたものであったが鬼無町内では実現できず国分寺町にその拠点が構えられました。しかし、そうなるには現在開設された高松盆栽の郷の前身は国分寺町の盆栽部会による直販センターであったため、国分寺の部会が受け入れるか否かは微妙な様相でありました。が、時の流れにより、すでにお互いが抗う状況では無く、いわば背水の陣という状況にて協力し合うしかなく意思が一致し実現したようです。

 

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松平 賴壽(よりなが)伯の研究

高松松平家12代当主です。

明治以降の近代高松をそして盆栽を語るには外せない人物です。

私が所属する国風香川玉藻小品盆栽会のルーツでもあります。

 

ここでは、松平公益会が昭和39年に発刊した「松平賴壽傳」を元に、現代の情報を取り入れて私なりに解釈し解りやすく綴っています。

少しでも多くの人に松平賴壽(よりなが)さんのことを知って頂きたいという気持ちです。